うーん、さうか。其れなら其れでいいが、
外がゴロゴロ言つてゐるよ。
陸奥蓬田、麗郷、魚島、勝沼、福知山上豊富、丸亀土器東(丸亀土器東)、都筑(都筑、都筑)、新仙台(新仙台)、新金沢(都筑)より、夫々着信あり。又、都筑より払込みあり。皆様ありがたうございます。
以前、野嵜さんの周辺の人物で、サイト丸ごと閉鎖してしまつた人がゐました。あの時は私も大変淋しかつたものです。まあ、其れも御本人の判断ですから、致し方ありません。
私の職場の後輩もサイトを閉ぢるとか言つてゐますが、彼にはもつとHTMLの文法を真つ当に勉学して貰ひたかつたと思つてゐます。
続いて、更に南へ飛び、地球の真裏のブラジルに行つてみよう。前回とは違つて、此処では在外邦人や日系人の居住区としての「神社」の一形態を示してみる。
ブラジルのサンパウロにはリベルダーデと呼ばれる東洋人街が在る。元々日本人が入植しこの街を築き上げて来たが、最近は支那人や朝鮮人も住むやうになり、日本人街から東洋人街に名を改めてゐる。
この地区の一角の大阪橋の袂にこの赤鳥居が在る。鳥居は在るが、どうも各種情報に依ると神社の社は無いらしい。然し、通りを跨ぐ程の大きな鳥居なので、現在では南米の東洋人街のシンボルとして有名になつてゐる。
又、同じガルボンブエノ街には日本庭園も在るので、其処に神社を創建しようとの動きもあるがどうなる事やら。遠く南米の地に在つても日本人の神社に対する畏敬の念は変らないと云ふ処か。
然し又、其れとは別に同じサンパウロ市内に石鎚神社の海外遥拝所が在るとの情報もあるが、現地の観光情報から其のやうな内容が見附からないので、何処まで信じていいのか判らない。
1974年(昭和49年)1月23日、大阪橋の袂に赤鳥居を建立。現在、神社の創建を計画中。
最近、海外に在る又は在つた神社の事を調べてゐる。海外の神社は調べてみると大きく二種類の形態に分類される。一つは在外邦人や日系人の信仰の拠り所として建てられた神社、もう一つは、日本の植民地支配の一環として建てられた神社、この二種類に分類される。
後者の場合、大東亜戦争の終結により其の殆どの神社が廃座となつてゐるが、中には其の痕跡が残されてゐるものも在るらしい。然し、前者の場合は、在外邦人の篤い思ひから、戦後の厳しい時代を乗越えて現在まで存続してゐる神社も少くない。
今回は、其の中でも特筆すべき神社として、ペリリュー神社を取上げてみたい。
時は大東亜戦争の真ッ只中、本土水戸から派遣されし第十四師団の兵士達は、本土の遥か南方のペリリュー島に在つた。
米軍はもう其処まで来てゐる。戦闘は必至の状況に在る。兵士達は大日本と米国との戦ひにペリリュー島の原住民を捲込むまいとし、近くの安全な島へと移送し、希少な資材を駆使して米軍との戦闘の備へを固めた。
米軍の戦闘機の唸る音が近附いて来る。時は来た。決死の戦闘が此処から始る。情け容赦の無い米軍の軍隊の攻撃に対し、在ペリリュー日本軍は善戦をした。然し、其の戦闘は在ペリリュー日本軍の負けの見えた戦闘であつた。幾ら米軍に死の恐怖を味ははせようとも、多勢に無勢、在ペリリュー日本軍は玉砕を餘儀なくされた。残つた兵士達は「サクラ・サクラ」の打電を最期に突撃し又自決した。かうして73日間に及ぶ戦闘は幕を引いた。
戦争が終り、元ペリリュー島民は島へ戻つてみて愕然とした。其の時初めて悟つたのである。日本軍が我々の命を守る為に安全な場所へ移し島に残つた事を。そして玉砕した事を。ペリリューの島民は「我々の島と島民を守つて呉れた亡き日本軍人」の遺骨を集め、島民墓地に手厚く葬つたとの事である。悲しきペリリュー島の歴史であつた。
其の后、元米軍のNimitz,Chester Williamがペリリュー島について以下のやうな事を記した碑文を遺してゐる。
諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ
南興神社は、昭和9年に植民地支配の一環として御鎮座す。原住民は「ペリリュー神社」と呼称し信仰してゐた。昭和19年、ペリリュー島玉砕により破壊され廃座になるが、昭和57年5月にペリリュー神社として再鎮座、現在に至る。旧日本軍の英霊鎮護の為に原住民が管理してゐる。
ペリリュー島で玉砕した兵士達よ、永遠なれ。
ひみつ
ですか。まあ、何か公表できる発見でもありましたらウェブで出してやつて下さい。
漢文体の文章にも色々な種類がありさうですね。
けふは酔つてゐます。だから明日纏めてとか考へてゐます。
nozaki directory project、一気に様変りしてしまひましたね。見た目に正字体を用ゐてゐない当方のウェブが、引続き正統表記に列席させて貰つてをります。其処でお願ひなのですが、検索トップページからはてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナへ直リンクを張つておいて欲しいと思つてゐるのですが、如何でせう。
體育の日は、直接的には東京五輪の開會式を記念した物ではあるのですが、「晴の特異日」であるこの日、秋の晴天の下でスポーツに親しまうと云ふ意味合ひもあるのです。ですから「體育の日」は10月10日でなければなりません。
今日日日記(2002年10月10日)體育の日 で、「体育の日」について詳しい解説を附けて下さいました。流石は記念日のウェブをお持ちなだけありますね。
東京五輪の開会式の日を「祝日」にした事は知つてゐましたが、「統計的に一年の内で晴れの日が一番多い日」と云ふの迄は知りませんでした。さう云ふ意味では10/10以外の日が「祝日」になるのは本来をかしい訳ですよね。
祝日や祭日と云ふと、福田恆存さんのお言葉を思ひ浮かべます。福田さんは戦後の制定の「祝日」を真つ向から批判してゐました。本来、国が定めた祝日は国のお祝ひ事を執り行ふ為に定められた記念日の筈ですが、現在の日本の「祝日」は仕事や学業を休む為の休日に成り果ててゐますし、制定された其の休日の意味すら良く判らないものが多くなつてゐます。そして、「祝日」とか「祭日」とか云つても国が何か式典でもするでも無し。世間の皆は「この日は休める有難や」てなもんです。
其の挙句の「ハッピーマンデー」ですから、祝ふ為の祝日ではなく、休む為の「祝日」な訳です。だから、よくよく考へれば戦前の祝日や祭日の概念は真つ当なものだつたと思ふのであります。
旧「体育の日」です。今年の「体育の日」は、偶々ですが「鉄道の日」と重なります。
サル並日記(2002-10-09-Wed)´ω`) スタイル弄り を参考に当方のCSSファイルの大きさを公表してみませう。
今この日記で使用してゐるCSSファイルは、4.90kbなのですね。この程度の出来で、こんなに使つてしまふのかな。
大野先生は上代語研究の大家ではあつても、訓点語のそれではないですから > ペトロニウスさま。
豚の戰爭(2002-10-09 (Wail))◎吉田金彦/築島裕/石塚晴通/月本雅幸〔編〕;2001/8;訓点語事典;で、訓点語についてお答へがありました。
よくは解りませんが、多分大野先生は訓点語には詳しくはないのかも知れません。唯、上代語を研究して行く上で多少は調べてゐるとは思つてゐます。『日本書紀』の場合は、本来の漢語では在り得ない間違へをしてゐるとの他の人の指摘もあるので、「性格が特殊」と云ふのは其の状況だけでも納得です。
訓点語は、此れからも精査して行かなければならない学問の一つだと思つてゐますが、猪川さんは何の為に調べたいのかをまだ聞いてゐませんでした。
きのふ、随分と久々にコンパクトディスクなるものを買つた。カノンオンリーのCDを2枚ばかり。
詳細は下記リンクを参照の事。
KANONのアレンジリコーダーヴァージョンを聽いて、自分でもこのKANONをアレンジしてみたくなりました。明日からやつてみようと思ひます。思ふだけだつたりして。
真千絵の日記(平成14年(2002年)10月前半9日(水))アレンジとか曲とか に反応です。
若しKANONをアレンジのMIDIやMP3が出来たら是非「真千絵の日記」で紹介して下さい。聞いてみたいですね。さうさう、基本の楽譜はウェブに在るのを確認してゐます。
日本は笛文化かどうか判りませんが、笛は昔から色々な人が吹いて来ましたよね。歴史は慥かにあると思ひます。歴史の重みと云ふのは、其れだけ技術の積重ねと先人の知恵があると云ふ事です。
多分、当分の間は他人から「あんたどう云ふ曲が好きなの」と聞かれたら迷はずに「パッヘルベルのカノン」と答へます。でも、さう云ふ機会はないかな。
私自身は音楽人間ではありません。自分から演奏しようなどと大それた事は考へもしませんし、どちらかと云ふと逃げてゐたと思ひますが、矢張りいい音楽はいつでも聴きたいものです。ですので、特段このアーティストの音楽や歌が好きとか云ふ感情は今の処は無いと思ひます。
平岩弓枝「平安妖異伝」読了。若き日の藤原道長が、謎の少年楽師・秦真比呂とともに、平安京を騒がせるあやかしどもを退ける10篇の物語。
はじめまして。超私事不定期日記(仮)(2002/10/08)平安妖異伝。に反応します。
平安時代に実際に生きた藤原道長は、政治的には相当な野心家だつたやうです。天皇家との政略結婚や政敵の陥れなど色々やつてゐます。考へやうに依つては今の政治よりもどす黒かつたかも知れません。紫式部とも関係があつたさうですが、其の后何か問題が起つたやうです。
あッ、『平安妖異伝』は未読です。
仮名遣の違ひを「文体の違ひ」と見る人がまだゐるやうだね。
新学習指導要領ではこの程度の事も国語の授業から削つてしまつたんだらうか。義務教育も堕ちたものだ。
因みに、表音主義者は此れらの四段の階層の一部を混濁して考へてゐる節があるやうに思はれる。歴史的仮名遣の批判と、漢字仮名混じり文の批判は階層の違ふ話だ。
古典音樂の作曲法と言はれるけれど、ある意味現代音樂であるとも思ひます。その作曲方法は昔に發見されたものの、可能性は無限にあつて、まつたく新鮮味を失はないやうに思ひます。
真千絵日記(平成14年(2002年)10月前半8日(火))KANONで反応がありました。曲の題名を知つたら急に色々なパターンのカノンが聞きたくなつてしまつたんですよ。
御意見は全く其の通りだと思ひます。現代でも色褪せないからこそ現代でもこの曲の需要があり、作曲法自体が活用されてゐるんでせう。パッヘルベルは其の意味で偉大な作曲家ですね。
其方のウェブでリンクされたMIDIは韓国の人のウェブのファイルですね。よく見附けられたものだと感心しました。ピアノが基本になつてゐていい感じのアレンジがなされてゐます。
私のお気に入りのカノンにリンクしておくのを失念してゐました。下記の頁の1番目にリコーダーのカノンが在ります。素朴な感じがいい味を出してゐます。ああ、もう寝なくちや。
訓点語について書いてある一般向けの本つて、いまもつてこれぐらゐしかないんぢやないだらうか。
豚の戰爭(2002-10-08 (Tear))◎築島裕;1970/3;古代日本語発掘;で、訓点語について言及されてゐます。さうさう、h3要素の訂正の件は確認致しました。お手数掛けました。
一応、大野先生の文庫で、『日本語はいかにして成立したか』(中公文庫)のp.318~p.328の間で簡単な説明が在ります。唯、「日本語の発展の途中にはかう云ふ事もありましたよ」と云ふ感じにしか紹介されてはゐないやうなので、訓点語の理解についてはもう少し詳しい書物が必要だと思ひます。
大野先生自体、『日本書紀』の註釈とかした事があるんだから、其の類の著書も出せさうなものですが、どんなものでせう。タミル語関係で其れ処ぢやないのかな。
訓点語に詳しい研究者と云ふと、国語学の人か仏典を学問にしてゐる人位の感じがします。平安時代の宮廷の男の殆どが漢籍を勉強してゐた筈なんですがねえ。
今日日日記(2002年10月8日)正字の風辭書、正字の驛名・社名に反応です。
「風」の場合は、作成者の冨樫さんの意向では仕方ないですね。若し仮に正統表記ヴァージョンの辞書を新たに作成するとなると、漢字の表示される順番の入替へと「あふぐ」など仮名遣に絡む変換候補の変更が考へられます。調べる事すら大変な労力だと直ぐにでも推測できる話です。
客車の重量は「コホナオスマカ」で重くなつて行きますね。客車の等級は「イロハ」が在り、「イ」は皇族のお乗りになる御召列車、「ロ」は二等車で今で云ふグリーン車、「ハ」は其の通り、三等車で今は普通車の事。其れで、「ニ」は写真で勘附いたと思ふけど荷物車の事ですね。「マニ」がまだ在つたと思ふけど詳しくは判らない。「フ」が車掌室附き、「ユ」が今は無き郵便車だつたりします。「ユ」が生きてゐたら今からでも鉄郵印を押して貰ひに行きますよ。
昔は荷物車と三等車が元々繋がつた客車が走つてゐたんですね。此れが朝早くに米子方面から福知山に通じてゐて、出稼ぎの大荷物を担いだ爺さん婆さんが荷物車部分を利用してゐたんです。嘗ての私達みたいな人達が荷物車側に這入つて写真機持つて光を焚いて荷物車内を撮影してゐると、よく煙たがられてゐたもんです。あん時の写真は何処かに保管して在る筈だけど、見附からなくなつてしまつた。
駅名の件ですが、余部駅の「余」は「よ」と読むので、昔から余部駅だつたかも知れませんが、確証を得るならば戦前の時刻表を参照するのが早いんぢやないでせうか。唯、餘部駅の場合は「餘」は「あまる」と読むけど、「余」の場合さう読むのは本来をかしいので、漢字は今も戦前も変らないと思ひます。
【余】の字は【朕】よりは下だけど【我】よりは格が上の第一人称ですね。尊大語ですから、其れに相応しい地位や資格を実際に備へてゐなければなりません。本来は其のやうに使はねばなりません。地名や駅名に其のやうな語が使はれるとは一寸考へ辛いんです。
鉄道の語のお話ですね。以前全く別の場面で話した覚えがあります。先づ「{金矢}」についてですが、多分鉄道会社の誰かが「金を失ふと書くのは宜しくない」と判断してこのやうな誤字を開発したんでせう。ですが、『諸橋大漢和』には既に「やじり」(普通は【鏃】と書く)の意味を持つ漢字として掲載されてゐますので、【鉄】からの書換へとしては全くの誤用です。
片や【鉄】ですが、【迭】と同じ漢字音で、「失」の字が「テツ」の音を表してゐます。略字としてですが漢字の六書の形声には合致してゐます。全くの間違ひでは無いと云ふ事です。ですが、正字には敵ひませんよ。
Kanon (独逸語)は、日本語で追復曲と呼ばれる。Johann Pachelbel (1653~1706)の作曲と云はれてゐる。独逸人の作曲家で基督教会のオルガン奏者だつたさうだ。
昔から好きな曲だつたが、何故か最近まで曲名すら知らなかつた。この曲ならいつ迄聞いてゐてもいい。
MIDIやオーケストラやピアノやチューバやオルゴールなど色々なヴァージョンが在る中、リコーダーのカノンが私のお気に入り。
今日日日記(2002年10月7日)風ならではの誤字で反応がありました。区点番号で1点違ひですから、何かの拍子で間違へてしまつたんだと思つてゐました。さう云へば富山いづみさんは「風」をお使ひでしたね。正統表記ヴァージョンの風辞書が在るといいなとは思つてをりましたが、対応はまだ採られてゐないんぢやないかな。
鉄道趣味関聯では一寸ディープ(旧客)な内容だつたやうで、反応が無かつたのは仕方無しか。まあ私としても「昔取つた杵柄」と呼ぶべき話題ですんで。
御進言も烏許がましいのですが、ももいろコーカン日記(2002-10-06 (Sun))◆きのふの買物のh3要素の終了タグが行方不明のやうです。
私のお薦めは『源氏物語』ですね。まだ通しで読んだ事は無いんですが、日本語の奥深さや細かい感情表現の綾などが非常に上手く書き表されてゐます。
古典の原文を読まれるのが理想ですが、谷崎潤一郎訳や与謝野晶子訳や円地文子訳や瀬戸内寂聴訳などでもいいでせう。読めばきつと日本語を母語としてゐて良かつたと思はれる事でせう。
「作家の全集」と云ふ意味合では、併せて『紫式部日記』も通読すれば紫式部の全てを読んだと言ふ事が出来ます。
今回の楽泉会で私は「缶隆の宝源局のハ貝寶」をお披露目した。上記のウェブで掲載されてゐる缶隆の現品を持つて行つた。現物だけ見ると隆の字の部分が一寸変つてゐるだけで然して注目に値する古銭では無いやうだが、どうしてどうして、この「ハ貝寶」(ハバイホウ)の物は中々出て来ない代物である。気になる人は、手持ちの缶隆を掻き集めて探してみるがいいだらう。
缶隆は、私の場合「フリュウ」と呼ぶが「ホトギリュウ」とか「ガクリュウ」とか呼ぶ人もある。「ガクリュウ」の読みは「岳隆」に附けられるべきもので、実際とは似て非なるものなので使ふべきではない。
盆回しでは、良く判らない文字の在るプル銭に似た小さい銅銭を入手した。師匠からは大観(タイカン、北宋銭)と景興(ケイコウ、安南銭)の幾つかを幾らかで譲つて貰つた。其の師匠は、Y!オークションの慶長通宝宝頂星が気になるとおつしやつてゐた。お世辞にも状態がいいとは言へないが、製作は鐚銭の技術と同じなのでこの程度は仕方ないのだらう。
きのふの晩からけふに掛けて、野嵜さんの周辺で何が起きてゐたんだらう。解らない。
議論は、お互ひの自論をぶつけ合つて自論の缺点を洗出し論述を鍛へ上げるのが本来だと思ふけど、唯、相手を蹴落す為にするやうな言合ひは議論とは云はない。
今囘から書き方を變へました。まづ、字體を現在使はれてゐるもの(殆どは略字體)にします。今でも正字を使つてゐる所もありますので、これをちやんと區別出來るやうにする爲です(いや、單に書き直すのが面倒と云ふのもあるのですが)。
今日日日記(2002年10月6日)けふの乘車記録の記述より。
今考へてパッと思ひ浮ぶのは「餘部駅」と「余部駅」ですね。姫新線のはうはまだ通つた事もありませんが、お座敷列車が脱線転落した事故で有名になつた餘部のはうには事故前に行つた事があります。昔はオハニ36とか云ふ旧客が山陰本線を走つてゐて、沢山の鉄キチが集結してゐたものです。閑話休題。
鉄道の駅名も固有名詞と云ふ意味合では仕方ないものがあると思ひます。固有名詞は或る種の自己主張ですから、実際の表記を尊重する態度は良い事だと思ひます。
一寸気になつたのは、いや、關東の大手民鐡で殘つてゐるのは京成と東武だけなのです。
の「民鐡」の字です。【鐡】(79区37点)は【鐵】(79区36点)の俗字です。
私の時は旧国鉄中央本線の各駅停車で行つて、甲府駅で下車、駅の南側のバスターミナルから路線バスに乗つて終点の手前で下車して到着でした。路線バスの癖に途中で観光案内の車内放送が流れるのが比較的に印象に残つてゐますね。
近くの坂道を下つて行くと綺麗な滝もあるからお薦めの観光スポットですよ。一寸遠いかも知れないけど、今は秋だからもみぢ狩に丁度いい時期かも知れない。
けふは、朝まで仕事だつたが、其の后「楽泉会」に行つた。駅前の高層ビルヂングに行つて、一寸文庫本を見回つてゐたが、面白さうな新刊が無かつたと思ふ。
楽泉会では西蔵のタンカ銀貨の束が出て来たので、其の束を全て大まかに分類してみた。大体7種類あるやうだが、「点無し」のものが1枚しか出て来なかつた。此れは今手元に在る。
某所で噂の在つた「藤城清治」の絵の「SFメトロカード」を入手。影絵の手法を応用した仄々とした絵が何かホッとする。切絵なら少しは判るけど、影絵には一寸疎い。でも、影絵と云ふと、甲斐国の甲府市の山奥の昇仙峡に在る影絵美術館が思ひ浮かぶ。這入つた事は無いのだが。其れで調べてみたら、其のものズバリぢやないですか。昇仙峡は行つた事あるんだけどなあ。惜しい事してしまつたもんだ。
BGM:Kanon(クラシック、繰返しの美、シャンプーのCFにあつたと思ふ)
此処の頁を見て呉れる知合ひから表題のやうな事を言はれた。先月の後半辺りは確かにさうだつたかも知れない。お蔭で直接関係の無い人にとばつちりが当つたらしいし、罪な事をしてゐる。先月の日記は韜晦日記では無く倒壊日記が正しいのかも知れない。
きのふに続いてけふも殆ど同じ状態です。
此処最近の報道では北朝鮮関係の話題が多いのですが、大体は「拉致」関聯ばかりのやうです。日本と北朝鮮との国交については、相互の国が自国の国益を十分検討してから結果を出して欲しいと思ふ処です。急いでも仕方ありませんて。
当方、本日よりフレッツADSLで接続できるやうになりました。どう云ふ利点があるか判りませんが、よしなにお願ひします。
下記の件は、確認致しました。当方も然してHTMLに忠実なウェブではありませんが、さうあるべきと目指してをります。間違ひなどありましたら何なりとご指摘下さい。
日々の軌跡の凪沢 夕禾 さんへ。"02,wed"直下のdiv要素の閉ぢタグが在りません。後で直しておいてね。
この例だと、普通に「つける」に該当する語は殆ど全て【附】を使つて構はない事になりますね。逆に【付】の場合は、用ゐられる場面が限られてゐるやうに思はれます。
「当用漢字」や「常用漢字」での考へでは【付】に統一しようとしてゐたみたいですが、結局、其れ以前に定められた「日本国憲法」の文面によつて【附】も生かされてゐると云つた塩梅です。
結論。【附】は、【付】の正字体ではありません。
「教」と「遣ふ」については誰か教へて上げて下さいな。
美輪明宏氏に學ぶの真千絵さんから「茲」について勉強になつたとの話題が出されてゐます。
内容はけふのちやぶ臺(2002/10/02)に載つてゐる通りなのですが、一寸附加へておきます。
先づ字体の話ですが、「茲」以外に、「{玄玄}」に見える字体も在りました。まあ、些細な違ひなので、あまり気にする事もないでせう。
実は既に当方設置の電子テキストにも「茲」は使はれてをります。主に漢文訓読系の文章に使はれてゐる例が散見されます。ですので、普段の文章では「茲」は使はずに「此処(此處)」を使ふやうにして、一寸古い言回しの時に「茲」としてみたりと使分けを試みてゐます。
下の話題にも関聯しますが、日本語を大切に使ふと云ふのは、かう云ふ意味合に取つて貰ひたいものです。
上記掲示板で大野先生の著書『日本語の教室』を御紹介申し上げた処、素つ頓狂な返答が来ました。
濃い薄いは言葉の絢
私は内容の希薄と申し上げました。内容の希薄とは、読んだ人に意味が通じ難いのであり、訳が解らないのであり、結局は其の言葉の塊其のものが無意味になつてしまふのであります。和歌や俳句ならば、古来様々な人々が洗練された詩歌を残してゐます。其のやうな書物を今一度読み直して詩歌の作成に当つてみては如何でせうか。
美を輝かせ感動を煽り立てんと内容を牛詰にし結果言葉の生地材質を台臺無しにする手の作物には興味がありませんのでね
言葉を手段として人がていかに素晴らしい造型をし遂げ得るかその手柄の程嘆賞するは文藝としては末義です
御自分に嘘を吐いてはいけません。此れは貴方自身の事です。当然、美を輝かせ感動を煽り立てる事に興味あるでせうし、文藝で手柄を得たいとお考へだからあのやうなウェブサイトをお開きなのでせう。
色々な啓蒙も結構な事ですが、私の意見は日本語を大切に使つて貰ひたい、唯其れだけです。通常の意味から離れた意味で語を使つて貰ひたくない。テニヲハの使ひ方には注意を払つて貰ひたい。文体にも注意を払つて貰ひたい。其れだけです。
佛は己造るにあらず 佛自らあらはれたまふなり
あのねえ。仏様ことゴータマ=シッダルタは、自分自身の人生に疑問を持つて天竺ブッタガヤの菩提樹の木の下で座禅を組んで瞑想して、其れで悟りを得たんですよ。勝手に現れ出るやうな事はありませんし、そんな事できる筈がありません。
世の中には生老病死、四苦が常に附き纏つてゐるのだと理解して下さい。私に仏様の事で説教を垂れないやうに。
颱風が関東を直撃してゐる。其れに絡み私にも被害があつた。コンヴィニエンスストアーで買ひ物した折、傘立てに挿しておいた傘が、帰らうとした時に無くなつてしまつたのだ。何処のどいつだ、俺の傘持つて行きやがつた奴は。
結局、店員の私物の傘を借りて帰つて来たんだが。
関係あるのかどうか判らないが、"hoops"から移行后の"infoseek"のフリーウェブが10/1から矢鱈と重い。もつと確り動作するやうに調整して貰ひたいものだ。
10月1日から、"infoseek"と"hoops"の合併の都合で、日記の過去帳を中心とする頁のURIが変更になります。周知致します。
私は常々「言葉は大切に使つて欲しい」と考へて、方々で述べてゐる。其の意味でも歴史的仮名遣を実践してゐる訳である。言葉の意味を違へて使つてみたり、無意味な仮名遊びをやつたりするのは私の本意とする処ではない。
電波の意味としては、正式には電波法に記載された用語説明に則るべきである。電磁波と云ふのは、電場と磁場の振幅の相互作用で空間を伝はる電気的な波を云ふ。マクスウェルの電磁方程式で豫言され、ヘルツが其れを証明した。
又、「2ちゃんねる」方面にのみ通用する用語として、「電波」と云ふ言葉が使はれる。同義語として「基地外」や「既知外」も用ゐられるが、此れらは全て気狂ひと同じ意味だ。
萌黄の館(神戸国際観光協会)と呼ばれる洋館が関西の神戸に在るさうだが、この語は元々は色の名称である。まあ、人名に使はれてもをかしくはないのだが、
神社の創建は第十代崇仁天皇の代にまで遡る。物部氏の総氏神として崇められ現在に至る。
「大和朝廷の武器庫」と呼ばれるやうに、七支刀(ななつさやのたち)などの様々な刀剣が宝物として祀られてゐる。御祭神の神々も全て刀剣に由来すると云はれる。
略して「布津」又は「フツ」と云ふ。
石上神宮では、平国之剣(くにむけしつるぎ)と其の霊威をかう呼ぶ。神武天皇東征のときに国土平定に偉功のあった天剣を平国之剣と云ふ。
然し、諸説を綜合すると、どうも「フツシ」ことスサノヲの父であるらしい。
略して「布津斯」又は「フツシ」と云ふ。
石上神宮では天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の霊威をかう呼ぶ。スサノヲが八岐大蛇を退治した時に用ゐた剣を天十握剣と云ふ。
然し、諸説を綜合すると、「フツ」の子のスサノヲをフツシと呼んでゐる。
略して「布留」又は「フル」と云ふ。
石上神宮では十種神宝(とくさのかんだから)と其の起死回生の霊力をかう呼ぶ。
然し、諸説を綜合すると、スサノヲの五男の饒速日(ニギハヤヒ)の事らしい。
フルことニギハヤヒの息子
出雲系の天孫三代。この名前は蒙古名だとか、扶餘からフツとフツシの親子が来日したとか言はれるが、真偽の程は慥かではない。
天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)とか天璽瑞宝十種(あまつしるしみづたからとくさ)とか呼ばれる。天神御祖から授けられた十種類の宝。
此れを数へて特殊な呪文を唱へると、死者も蘇ると云はれるが、現在は其の宝物自体が消失してゐるらしい。
国宝。「しちしたう」とも「ななつさやのたち」とも呼ばれる。献上か下賜かは判明しないが、朝鮮半島の百済王からの貰ひ物である。石上神宮に宝物として保管されてゐ。
ニギハヤヒの正式な名称は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこ・あまのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと)と云ふ。櫛玉は奇玉とも書かれる。
出雲系の天孫のスサノヲの五男で、日本建国の草分け的存在で、物部氏の祖神として崇められる。又、日本各地の神社の御祭神として布留大神(ふるのおほかみ)、櫛玉命(くしたまのみこと)などと呼び、祀られてゐる。
又、大物主櫛甕玉命(おほものぬし・くしみかたまのみこと)と云ふ名の神も在るが、大物主とニギハヤヒが同一人物であるかどうかは断定できないと思ふ。
更に、正式名称に在る「天火明」ことホアカリとニギハヤヒは別人であるとの見解もある。歴史的な面と実際の祭祀の状況などを勘案して論じて欲しい。
因みにスサノヲは速玉(はやたま)と呼ばれる事もある。
古代日本で影響力を持つてゐた豪族。神道を信奉し、軍事、警察の権利を掌握してゐた。其の祖神をニギハヤヒとし、『先代旧事本紀』に代々の出来事を記してある。
仏教を信奉する豪族の蘇我氏との政争に破れ、政界から身を引いて石上の姓を名乗りつつ代々石上神宮の宮司を司る。
端的に云へば、物部氏の歴史書である。全10巻で構成される。略して『旧事紀』と呼ぶ。
記紀とは又違つた日本の歴史が読めるらしい。
鴨川の水源地に鎮座し、水の神として崇められる。和泉式部もお参りし、不和となつた夫と復縁したと云ふ言伝へがある。
実は「魏志倭人伝」と呼ばれるやうな書物は存在しない。支那の歴史書に晋の陳寿が著した『三国志』と云ふ書物が在り、其の中の「魏書」(通称「魏志」)の「東夷」の条に収められてゐる古代日本についての1988字の記述を、日本では「魏志倭人伝」と呼んでゐるのである。
其の中には、「卑弥呼」と呼ばれる女王が日本の一部の邪馬臺国を統率してゐたと書かれてゐるのだが、邪馬臺国が一体日本の何処に在つたのか未だに決着がついてゐない。抑々「白髪三千丈」の国の歴史書である。何処から何処迄を信用していいのかすらも判らない。
先づは、江戸(現在の東京都心部)は風水の設計に依る硬い結界が張られた都市である事を明記しておく。
この結界の作成に当つた人物は天台宗僧侶の天海僧正と呼ばれる。
内容としては、江戸城の表鬼門(北東方向)に寛永寺を置き、裏鬼門(南西方向)に目黒不動を置く。其の施設を結ぶライン上に江戸城(現在の皇居)が乗る形になる。更に、江戸城の表鬼門に目黄不動を置き、江戸城を取囲むやうに目赤不動、目白不動、目青不動と「江戸五色不動」を設置した。陰陽五行説に基づく結界を張つた訳である。又更に、江戸の遥か北方には日光東照宮を置き、江戸の守りとした。
其の他、参考として。
さうさう、露草色の郷のtoka3akiさんに諸々の御意見を賜りたいのですが、如何でせう。